恐怖を商売にすること

上で取り上げたエントリに関して考えたこと。その昔、恐怖って言うモノは今そこにある現実だった。日本でもその現実は今生き残っている人で感じた事が有るくらいについ最近まで残っていたモノだ。何処までの自由や平等って言うモノがその境界線になるのか知らないが自分の祖父母が生きていた時代の最初の頃には確実に男女平等ってものは無かった。
まあ、今でもなにがしかのモノが残っていると感じる人はいるのかもしれない。しかし、それは幻惑の中だけのモノにも感じられる。立場なんてモノは、固定化されたモノでは無いが誰にでも与えられるモノでも無いっていう具合に。
そういう社会だと、違いって言うモノを明確にしてそれを煽る事が商売になってくるのかなあと思えてしまう。少なくとも今の日本社会ではそう感じる。なんだろう、自分が進めない所に他人がズカズカと入っていくことに訝ってしまうところっていうものを感じる。良いじゃないか。他人は他人。自分は自分なんだから。他人がどの様な行動を取ろうとさ。まあ、自分が殺されるのはそれなりに嫌だったり、自分の傍でそういうことをやられるのは確かに嫌な感じもするだろうけど、そういう嫉妬を論理にかぶせて話すのは余り美しくない気がするなあ。それに踊らされるのも同じ匂いがしてしまうようでなるだけ自分ではやりたくないなあ。あまり体力が残っていないから、それほど奇抜な事が出来る訳では無いのだけれど。色々な意見を眺めていてふと思いついた事を書き殴ってみた。