紛い物の良心

我々は音楽を「所有」し得るか - 狐の王国を読んで。映像なんかの方はちょっと難しいので置いておく。音楽だけに関して言えば、我々が、触れられる「コンテンツ」っていうモノは十把一絡げで「紛い物」と断じて良い。我々はそれだけ「真の音楽」というモノから遠く離れたところにいる。
このようなことを感じるようになったのは、望夫さんが三鷹市美術ギャラリー【「あるサラリーマン・コレクションの軌跡〜戦後日本美術の場所〜」展】ここの紹介を行ってから。紹介自体は、今はプライベートになっているはてなページで行われたモノだけど、この展示を見に行けて本当に良かったと思う。ここでの展示を見たおかげで、自分は「本物」が持つ何ともいえない力を目の当たりにすることが出来た様に感じる。
音楽っていうものは、エジソンが蓄音機を発明した昔から、「この人の演奏をもっと多くの人に聴いてもらいたい」っていう情熱から複製が始まっているモノなのだと思う。それは環境にもよるだろうが、決して複製からは感じ取れない何かをその時間/場所に含有しているモノなのでは無いだろうか。
全く異なるはなしのなかでは有るが、広告というモノの変遷 - 蜈蚣さんの歩き方 〜邪に無きことを思ふこと〜で挙げた、「物質的なアクセス」って言うモノが冗談抜きで「宝石の様に贅沢品」になっていくのでは無いだろうか。
若い間はそれほどお金をかけられるモノでは無いかもしれないが、これはと思ったモノに関しては、オルタナティブでは無く、「本物」にアクセスすることを考えた方が良いのかもしれない。そこにある小さな差分は決して超えられない断絶を孕んでいるように思える。