相手を悪として議論を進めることの古さ

国会で教育基本法の審議が野党がいない状態で可決されたというニュースが今朝流れていた。正直、そのような審議をしていた事自体知らなかったが、可決はした模様である。そのニュースが流れていたときに、野党側が与党の数の勢いに任せる審議方法は許せないから審議拒否だという感じで流れていたのでなんだかなあという感じを持った。ニュースで流れていることが全て正しいとは思わないのだが、本当に審議拒否をしたとすると方法論としての古さを感じざるを得ない。
野党として何か対案を出していないのか、若しくはもっと詳しい審議拒否の理由を書いていないか、情報元ととなるかは不明だったが、民主党の人のBlogを覗きに行ったところ、対案は出していたようだが、理由は上のモノから外れていない内容であった。(長島昭久 WeBLOG 『翔ぶが如く』11月17日の記事)
私は、今回の教育基本法の改正内容は知らないし、野党がどの様な対案を持っていたのかも知らないし、野党が審議拒否に至る経緯もまったく見ていないが、最終的に出された野党側の論理というのが、上のBlogで主張されているモノだけだとすれば、それは単純にこの法案の通り方が見た目が悪いようにするためだけに我々は出ていかないと言っているようなものだ。10年(20年か?)以上前ならば、国会で野党がいない状態というモノに気持ち悪さも感じたのだろうが、最近では使い古された観があるためか、また野党がごねている程度にしか感じられなくなってきている。まあ、20年より前の話というのは、記録の上での歴史としてしか知らないのでそのまえから陳腐な技だったのかもしれないが、それは於いておく。