報道的な事がお金にならなくなるたった一つの理由

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/363ここを読んでいて、上の様なことを思った。感じ方はどうあれこういう真逆の反応を見せられると、商業的にやっているという方に関してはどうしてもお金の流れを裏読みしてしまい「提灯だ」というレッテルを貼られてしまうのかなあ。それが進んでいくと、純粋に記事として書いても「商業的」な部分が足を引っ張るようになり、ちょっとした事でもバイアスがかかったモノとしてみられる様になるのでは無いだろうか。
大体において、マスコミによる一次情報というものは、発信者が発信する場所さえ設ければいつでも何処でもどんな量でも出せるものなのだから、従来型のマスコミに頼る必要性というモノはもう無いのではないだろうか。足で稼ぎ、時間をかけなくては解らない様な事、っていうのが、最近どれだけ有るのか知らないが、時間と金と労力をかけたルポや、ドキュメンタリ足り得る情報ってどれだけ有るんだろう。情報化という流れからは敢えて逆行するように感じるが、「情報の発信者」としては、即時性というものは手放して、人でなければ得られないモノを創り出していく事を目指して言った方が良いのでは無かろうか。
勢いで書いたが、元の記事とは全く関係のないモノになってしまったなあ。まあいつものことだから気にしないでおこう。