見出し付け忘れていた

マスコミ論についてもうちょっと - バイコヌール地下13階トラックバックを頂いてからかなり経った。頂いた当初からエントリに関しては、読んでいたのだが、どこから話を始めて良いのか良く分からなかったのだ。なので次の所から始めたいと思う。

「不偏不党」という建前・名分はマスコミには必要不可欠なのでしょう。


もうちょっと掘り下げて考えてみると、Blogなどでのやりとりでもお互いに「不偏不党」であることを前提にしているはずです。「私は○○党を支持しているので、□□という政策も支持する」では議論になりません。「(私は○○党を支持しているがそれを差し引いて考えても、)△△という理由によって□□という政策を支持する」となっているはずです。そうであるからこそ互いの論理について討論が成立するのですから。

この部分に関してはid:kz78氏が私の意見を引用して賛同出来る、と仰っているのと同じくらい同意できる部分だと思います。唯、”無くて七癖”共言うように、全てを消し去ったとして無心に書いた意見でもその人の”臭い”と言うモノは残ってしまうと私は感じています。マスコミに当てはめてみますと、意見では無い、報道部分だけを取り上げて見ても、何を取り上げ何を入れないか、何処に何を配置するか何を先に出してそこに何を続けるか、等と行った形でその人の”意見”と言うモノがにじみ出てくるモノだと思います。
それって言うのは極論かも知れませんが、ここで私がマスコミの意見の出し方に関してエントリをあげているその後で、朝日や毎日の記事に関して「またこんな記事が載っている、しょうがないなあ」みたいなモノを取り上げた場合と、構成としては見る人の多寡くらいしか代わりは無いものでは無いでしょうか。(文章の内容に関しても差が大きく有るでしょうがそれはどっか遠い棚の上にでもおいておくとします。)
人の作るモノに関しては”マス”と言う仕組みはそろそろ過去の遺物として捨て去って、誰が作ったかと言うことを気にしてモノの選択をするという時代がその内来るのでは無いかと個人的には感じている所も有るので、物事を報道するマスコミという立場に関しても、もう少し”人”が見える状況に移って行くことが必要なのでは無いかなと思っています。
モノは全く変わりますが、マスプロ製品と言って良い電化製品などの中にも”私が作りました”っていう色のモノが探せば有るように感じています。同じ会社の製品でも作る人が変わってしまえば、似て非なるものって言うモノが出来上がってくるモノなのでは無いかなと思います。
詳しく中の人を比較出来る環境が現在ある訳ではありませんが、”人で選ぶ”と言う事が起きると良いなと考えております。
グダグダと長くなりましたが、不偏不党な公共性って言う形のモノは有る意味”無味乾燥な大量生産品”と言う位置づけで捉えていたために前の様なエントリになりましたし、今回もその辺りを主張してみた次第です。