モノを作ると言うこと

人々は見たいコンテンツを見られないから不正流通を利用する - 北の大地から送る物欲日記を読んでいて、以下の文章を思い出した。
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/000944.html
今回のエントリは、上の話とは関係なく(すいません)、最近の次世代ゲーム機に関する話題をネットで眺めていて思ったことを書いておきたい。

CPU至上主義とその次とは

まあ、入ってきている内容が貧困な物だから、ほとんど情報を持たずに書いているのだが、「すごい機能をつっこんでこれまでに出来なかった事が出来るようになります、すごいでしょう」、という様な話を聞いていると、何となく違和感を感じてしまう今日この頃なのである。
ゲーム以外でもそうであろうが、物を購入するという場合にそれに対してどの様な技術が使用されているということは最後までどうでも良い話であり、有用な物や面白い物であれば、そこで使用されている技術というのは関係ないのではないかなあと思ってしまうのである。そのような考え方からすると、すごい機能=面白い物という理屈がだんだん成り立たなくなってきているのかなあとも考えられる。

ものつくりをするときに最初に考え、最後まで念頭に置いておくべき事

Winでwinな関係を作り上げるためには、想定している顧客が欲している物を提供する必要が有るのだと思う。もちろんそれを提供することが、提供する側の利益になることは当たり前であろうが、何処まで行っても自分がソンをするような事を行う人はいないと思われるので言及はしない。自分がソンをするようなことを起こす人はいないという考えが正しいのであれば、後は対極にある相手側が成功する事を考えればwinでwinな関係はできあがるはずである。ならばそのような観点からできあがってくる物を見ていくと自ずと道は見えてくるのではないのかと考えている今日この頃である。
CPU至上主義というのは、器械の処理能力が圧倒的に低く、ユーザにとってもストレスの要因であった頃には、ユーザ側の要求にもマッチした物の見方だったのかもしれないが、最近の様にそこまで必要なのかというほどまで上がった技術をみんながほしがるのかというとそこには疑問も生まれる訳であり、そこまでの技術を使用しなくても面白いゲームは作れるという方向性も有るのではないかなあと考えたりしたわけである。
枕にしたネタとはあまり関係の無いエントリになってしまったが、ユーザは欲しいものが合法的で妥当な形で存在すれば、違法でやすい手段が有ったとしても前者を選ぶという事とは若干にたような話になるのではないかと思い持ってきてみました。